パフスリーブの服
七十才を越えたので、本気で身の回りの物を整理しようと、二階の三畳大の納戸を開けた。古色蒼然とした文箱や行李に、亡き両親の物も、まだ残してあった。
今ではとんと見かけない茶色に変色した柳行李を開けてみた。この中をまだ改めて見ていなかった。
母の色鮮やかな赤、黄色、青の水玉模様のマフラーが三枚重なって出てきた。真白のスーツにこの黄色のマフラーをして、颯爽と会合のスピーチをしていた母の姿を思い出した。ツンと鼻の奧が痛くなった。
マフラーの下から、白くて柔らかい紙で包まれた物が出てきた。
(何だろう?)と、そっと開けていくと、かすかに甘いみかんの匂いが漂ってきた。
出てきたのは幼い少女の服。
(あっ、これは妹の佑子の服だ)
と、私は息が止まった。
昭和二十二年の八月の地蔵盆の日に、疫痢で半日苦しんで、あっという間に息を引き取った三才の佑子。
仏壇前の30㎝×40㎝大の遺影の佑子は、緑の壁紙の前でパフスリーブの服を着て、右手で洋服をつまみ笑っている。袖と肩周りは赤い花弁の模様、身頃は渋い黄土色で、母がカーテンや自分の服を利用して縫った物だ。
写真で見慣れたこの洋服の実物が保存されていたのだ! ワーッと涙が溢れてきて、洋服を思わず胸にかき抱いた。佑子の体温を感じた気がした。
佑子はおでこの大頭で
「賢いよ、この子は」
と祖父は彼女のつやつやしたおかっぱ髪をよく撫でていた。鼻も低く目が離れていたが瞳は澄んでいて、気立ては良く穏やかで誰もが愛していた。
佑子の写っているくすんだモノクロの写真が十枚位残っている中に、祖母の針仕事の横で座布団に座り布を与えられているのがある。私の最も好きなスナップだ。
私は佑子にあやまらなければならない事があった。佑子が二才、私が五才の頃、私は佑子におねしょの罪を被せたのだ。叱られなかった私はルンルンしていた。
それがたった三才であの世に旅立ち、臨終前の虚ろな目を見た私は日が経つにつれ「ごめんなさい」とあやまれなかった事が無性に辛くなっていった。佑子につながる物があれば…… とどこかで探し求めていた様に思う。
「ごめんね佑子、ひどいお姉ちゃんやったね」
六十五年かかった謝罪。涙が筋をひいて頬を伝わった。
(佑子はみかんが好きだったので、母はオレンジフレグランスをこの洋服に振りかけて、切ない思いと共にしまっておいたのだろう)
探しあてたパフスリーブの洋服を私は白い紙でそっと包み直した。
-fin-
テーマ:探し物
平成二七年十一月九日
※パフスリーブ
袖付けと袖口にギャザーを入れて膨らませた服