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遠距離感謝

 言葉は日々の暮らしの中で私達の心の潤滑油だ。ちょっとした一言で救われたり、又傷ついたり言葉の持つ力はすごいと思う。
(人を殺すに刃物はいらない。言葉で人を生かすも殺すもできる)と云う。人間だけが持つ言葉の大切さ怖さをしみじみ思う。
 水の実験でコップに入れた二つの水の各々に「ありがとう」と「憎い。怒り」等の言葉をかけ続けると水の結晶に変化が現れるそうだ。人間は60%水なので言霊(ことだま)が体調を左右するのだろうか。

 昨年私は鉢植えの三色すみれを買ってきた。パソコンで育て方を読み、陽や風の都合も良い所に置いたのに何が悪かったのか、二週間で枯れてしまったのだ。
(水の結晶云々)の話しを聞いたので、今年も三色すみれを買い「きれいね。あなたを見ていると心が柔らかくなるよ。ありがとう」等、日に一回は言い続けた。
 そのお蔭か(?)一ヶ月経っても花を咲かせている。
 そう言えば、モーツァルトの音楽を聞かすと、温室のレタスの成長が早くて美味しい……と大分前からテレビで云っていたが、これもどういうことなのだろう?
 一度水の結晶の実験をこの目で確かめたいものだ。何しろ水は無機質なのだしなあ!

 私は(ありがとう)と云う時、100%近く(嬉しい!)(家族皆の好物です!)等無意識で付け加える。ありがとう一言だけでは足りない位ありがたいのだ。
 和菓子の場合、後日「この間頂いたお菓子とても美味しかった! 紫色もたおやかで送り主の雰囲気を感じながらいただきました」等云う。すると
「まあ、そんなにまで云って頂いて」と云う人が殆ど。
「あなたはお口が御上手だから」という云い方をする人も中にはいる。そんな時、私には「口がうまい」イコール「そんな気も無いのに口先だけの人」という厭な感覚がまとわりつくのだ。
―あなたに語彙(ごい)が少ないだけのことよ。判らないの―と云い返したくなる。
 人間とは恐い。その時の私の顔は笑っているはずだから。

 七月と十二月に、十年程前から「ありがとう」「こちらこそありがとう」の手紙のやり取りをしている長崎の女性O・Tさんがいる。O・Tさんは四十年程前に、当院で元気な男の子を出産された。その時大出血の難産で輸血をかなりしたようだ。『ミドリ十字』が作り出した血液製剤『フィブリノーゲン』はその頃国の認可を受けて、この様な大出血の時真っ先に患者に使い、母体を救うのが常識となっていた。だが、十年後、薬がC型肝炎を発症させる原因の一つになっていることが突き止められ、国中で裁判が行われていた。夫は家の患者さんで、該当している人はいないかなと案じていた矢先だった。
 彼女は電話してきたのだ。
「先生、私はC型肝炎の感染者なのですが、出産時輸血をしてもらったと記憶しているのですが、フィブリノーゲンも入っていたのでしょうか? 何しろ三十年前の事だから、なにも手がかりはありませんでしょうね?」
 七年前以降のカルテは保存厳守だが、何しろ三十年前のカルテはない。その旨を告げO・Tさんは発症していないが、慢性肝炎の感染者であることは間違いないというので、「無理はしないで」と云って、一回目の電話は終わった。
 その夜、夫は突然ハッとしたように三階に上がって、ずらりと並んでいる本の中から三十年前の十年日記を取り出した。昭和四十五年十一月五日に(今日、大出血のお産があって、疲れた)と書いてあった。
「この頃、大出血の場合、フィブリノーゲンを全ての産婦人科医が必ず使っていたはずだ。ベビーの誕生はその日一人だけ。俺が日記にまで書く位だから、百パーセント彼女の言葉通りフィブリノーゲンを使ったのだろう」
 と、再び長崎まで電話をかけ事情を話した。

 それからが大変だった。O・Tさんの代理の女性の弁護士さんから、何通もの書類が来て、医者としての証明をしないといけなかった。夫は医者として、99.9パーセントの確信を記入し、書き慣れぬ法律の書類と格闘していた。
 半年が経った。その間、長崎からの連絡はなく、どうなったのかなと気になっていた。ところが、二ヶ月後、弁護士さんが来阪して十年日記を確認し、又もや書類記載を夫に頼んだ。
 年が変わってから九州の裁判所から書類がきた。
『お宅のクリニックを裁判所に見立てて、証人として貴殿に参加していただきたい。裁判官、検察の者二名、原告の代理人として弁護士二名来阪します。○月○日を希望しております』とあり、
「ええっ! 家で裁判?」
 と、びっくり仰天、大きなマザーホールに椅子を四角に並べ、その日を待った。

「小川眞琴さん、あなたは真実のみを述べることを誓いますか?」
「はい」
 で始まった裁判は、今迄何回も云い、書いた内容で、少し夫はげんなりしたらしいが、一番の証拠の日記やフィブリノーゲンの書類や参考になりそうな物は全部揃えて、一時間半ほどで裁判は終わった。
 
 そして二年が経ち
『先生、勝訴です。数千万の慰謝料がでるそうです。長い間、煩わせて申し訳ありませんでした』
 と、O・Tさんから喜々とした声で電話があり、続いて弁護士さんからも御礼の言葉が届いた。
 
 七月、お中元として長崎のO・Tさんから長崎のとびっきり高価な生雲丹が送られてきた。
「先生には長い間、御礼の申しようもない難儀なことをお頼みして誠に申し訳ありませんでした。私の心からの感謝として、わずかではありますがお受け取り下さいませ。なお 先生の所で誕生いたしました息子は、素直で逞しい大人になっております」
 と、いう美しい文字の手紙が同封されていた。海産物の好きな夫は嬉しそうな顔をしている。
 私も早速ペンをとった。手紙は私の役目だった。
「こちらこそ高価な夫の大好物送っていただきありがとうございます。長い間お辛いこともあったでしょうが、今後も無理なさらずに 発症の無いことを願っております」
  
 十二月にも彼女からとびっきりの美味な魚の干物が幾種類もと、商品券が届いた。
「おかげさまでミドリ十字から慰謝料が振り込まれました。私のみならず、家族全員の健康管理に使わせていただく積もりです」
 「良かった、良かった」と夫と言い合った。
 
 だが次の夏も冬も吟味した品が贈られてくる。私は思い切ってO・Tさんに電話した。低めの響きの良いアルトの声がした。
「十分に感謝して下さるお気持ちは頂戴しております。今後は私方へはお気遣かいありませんように」と話し、各々の子供達の話しもした。
 彼女は
「国から頂いたお金より、先生の無償のお力添えが、どんなに嬉しかったかしれないのです。私の生きている限りこの気持ちを続けさせて下さい。まだ元気にしているなと思っていただかれたら幸いなのです」
 と、彼女は、最後は泣き声になっていた。

 次の夏も冬も、その又次の年も素適な贈り物は続いている。
 私は知っている限りの形容詞、副詞を捻り出して、御礼状を送る。
『ありがとうございました』と。

 今では長崎に新しい顔も知らない友人が出来た様な気がして、いつか、その地に行くことがあれば、是非会ってみたい!

『ありがとうございます』と『ごめんなさい』の二語があれば世界中の揉め事が随分と減るだろうな。
『有り難し』は『ありがとう』の古語で『めったにない』から転じて『滅多に無いほど優れた』と感謝する意を表すようになるのは、元禄時代以後とある。
『ごめんなさい』は『御免』から生まれ『免許』の尊敬語が、本来の意味だったそうだが、『許す』『ご容赦』の意味にも使われるようになったと、古語辞典にある。
 昔々の日本からあった、ゆかしい言葉の数々は色々変遷を続けてきたのだ。日本の美しい言葉を大事にして、守っていきたい。

-fin-

テーマ:「ありがとう」に含まれる思い
平成二十八年四月十一日

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