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月 二つ

 岡本月子が五才の時、祖母志保は五十五才だった。志保は色白で髪は後ろで一つにまとめていた。祖父は京都の鞍馬山の山林の管理をしていたので、一日中留守。志保は孫、月子と四季折々、木々が若葉を茂らせ、落葉し、色とりどりの野草が咲き乱れる中で過ごした。両親は共に、高校の教師だったので、月子はおばあちゃん子だった。

 十五年前の事だ。志保は一人で山を下り、古物市に出かけた時、ぼろ布で織った茶托を見つけた。茶や緑、赤黄の10㎝平方の布切れだ。それからの志保は憑かれたように、図書館や呉服屋を訪ねて、「手織りの染織を教えてくれる所はないか?」と聞き回った。やっと
「一度訪ねてみたら?」と言う情報を得て、上賀茂の裏にある古い小屋を訪ねた。
 みすぼらしい身なりの男が一人「コトリ、トン」と機(はた)を織っていた。両足も使い、機に縦糸を張った中に横糸を組み込んでいく。棚に色鮮やかな糸が並べてあった。男性は四十二才で野上勇と名乗り、志保の弟子入り希望を聞いても返事はしない。四十才になっていた志保はその日、燃えるような目の輝きを放ちながらひたすら勇の機織りを見続けていた。
 日参する志保を勇は拒まず、見学は自由だ。
 ある日、勇は一枚の白のタオルと玉葱の皮を笊(ざる)一杯入れて志保に差し出した。朴訥(ぼくとつ)に、
「玉葱染めを教える」と箇条書きを渡した。
「まず一番目に、水三リットルに玉葱の皮15㌘入れて火にかける。二番目は……」と志保は夢中で①~⑩まで書いてあるメモを読んだ。
 いつの間にか勇の姿はなく、手にしたメモの書き込みと必需品が揃えてあったので、志保は必死になって取り組み、できあがった。
 玉葱色に少し柿色がかった色のタオルが揺れていた。「嬉しい」志保は小躍りした。
 以来、様々な糸、布の染め、織りを勇から教わり一〇年が経た。
 経験を積み、薄緑、緑、白、オレンジ色を織り込んだ2m×1mのタペストリーを志保は作った。河の水がうねり、流れを思わすその作品は『流れる』と題をつけ、家の肌色の壁に架けられている。月子は生まれてからずっとこの『流れる』を見て育った。染織の話しも聞き、ドングリやヨモギ染めも教えてもらった。
 やがて、月子は透き通るような白い肌と真っ黒な髪のスレンダーな娘になっていた。口紅一つつけずにいても、意志の強い目がキラキラしていて美しい二十才だった。
「私は一生を染織家として生きていく」
月子の決心を聞いて、志保は自分の血を継いで行こうという孫が愛しく頼もしかった。

 その頃三十才になったばかりの大山美咲は染織界の時の人だった。女優と言われても良いほどの派手な美貌に豊かな胸と括(くび)れた腰。若くして染織家として名をなしていた栗山真司に十八才から師事して、最近では数々の展覧会で入賞し、個展もしばしば開いていた。
『美しき人、大山美咲の艶やかな織物』と、ポスターもあちこち張られている。
 三十五才の栗山と美咲の共同作業所は、京都西京区の大文字山の麓、鹿(しし)が谷にあった。
(よし、ここの弟子にしてもらおう)
 月子は履歴書、弟子入り希望の手紙と自分の作品も入れて、美咲宛に何回も出したが、二ヶ月経ってもなしのつぶてなので意を決して電話をした。
「もしもし、栗山です」
声の低い静かな感じの男性がでてきた。
(えっ、美咲さんのあの有名な師匠、栗山先生?)びっくりした月子だが、子細を言うと
「岡本月子さん、一度いらっしゃい」と、栗山は電話を切った。
 五月だった。翌日早朝、月子は鹿が谷に向かっていた。あたり一面緑したたるばかりで下草の中に黄色の野草が覗いている。野草に顔を近づけ、香りをかごうとした時
「岡本月子さんですか?」
不意に男性の声がして驚いて顔を上げた。
「栗山です」の返事に、月子は弾かれたように立ちあがった。
「もうすぐ作業所です」と中肉中背の精悍な男性が作務衣を着て立っていた。手には野草の束を持っていた。

 住まいと作業所はつながっていて、黒い車が一台止まっていた。
「又来てね。織田君、東京展ともなると何度も打ち合わせしないとね」と言う声がして、髪にターバンを巻いた女性が若い男と家から出てきた。
「約束ね」と女性は男性にしなだれかかった。「はい、美咲先生」と返事をした男性は、栗山達に気付いた。
「アッ、栗山先生」
 織田は慌てて美咲から離れて、栗山に丁寧に頭を下げた。織田は美咲の個展の相談役として画廊から派遣されていた。
「ごくろうさん」と栗山は一言だけ言って、月子を作業場に誘おうとした。
「だあれ? この子」と美咲。
「昨日話していた岡本月子さんだ」
 美咲に挨拶途中の月子の背を栗山は押した。
 作業所には、五台の織機、大きな甕(かめ)が三つ、ガスコンロ、洗面器、長い棒。棚には糸の束、大量の布が並んでいた。
「月子君、まずこれを見てごらん」
 栗山はテーブルに分厚いスクラップブックを持ってきた。最初のページを開けるなり月子は目を見張った。10㎝大の端切れが、所狭しと貼り付けてある。単色に色柄に織りありと端切れの見本帳だ。栗山は古着屋を遍(あまね)く見て回り、山奥の老女に草木染めを習い糸つむぎなどあらゆる事を習得したその成果だった。
〈お久しぶり、クスクス〉と端切れ同志が声を立てて笑っているようだ。月子は側に栗山がいるのも忘れてページを繰っていった。
「月子君、合格だ。今日から弟子だ。200m離れた所にプレハブの小屋がある。そこが君の家だ」と明るく大きい声で命令口調で言った。
「えっ、弟子にしていただけるのですか?」
 月子の大声に、栗山は首を縦に振った。
 興奮したまま、月子はスマホを取り出した。
「お母さん。私ね。鹿が谷の栗山、美咲先生の弟子入りを許されたの。私の持ち物、最少でいいから送って。メールで住所知らせるね」
 母が質問してくるのを遮って
「おばあちゃんにも宜しくね」
 月子は火照った顔で隣にいる栗山を見た。

 作業場では数人が立ち働いていた。
「月子君、藍染めだ。見学してごらん」
 栗山は皆に月子を紹介した。
 白い絹の生地に、茎を取り除いた藍の生(なま)葉(は)を用意し、水と一緒にミキサーにかける。それを細かい布でこす。漉(こ)し布をしぼって染料液をとる。そこへ水を加え、一五分浸し染め。その間布を良く動かす。最初は黄緑色に染まった布もしだいに薄い青に変化していく。魔法をかけたようだ。一五分くらいで青くなる。水洗いした後、タオルで水分を取り、風を十分通し天日干しにする。肌に優しいスカーフの出来上がり。
「どうして緑が青になるのでしょう」と月子が呟くすぐ横に音もなく美咲が近寄ってきて
「弟子入り許されたの?」とだけいった。
 月子は「宜しく御願い致します。」と硬くなって礼をした。
 その夜、月子はなかなか寝付かれなかった。窓から見える月に
「お月さま、私も月子です。がんばりますので見守ってください」と願った。
 翌日は『すくも藍』を発酵させる作業を手伝った。室町時代から始まったすくも藍。大きな甕(かめ)に発酵して泡だったもの、表面に赤っぽい膜が出来たもの、四~五日経ち表面に紫色の泡が出来、染めるのをまっているもの。紅花と並んだ代表的な染めだ。

 美咲が東京展の個展へ出品する作品に取りかかった。赤と紺の糸をと指示し弟子が織機を動かしだした。
 作品のデッサンを栗山に見せて
「今度はサルドール・ダリ風で挑戦してみたいの」と、栗山に言った。栗山と美咲は結婚していないが、ずっと一緒に暮らしている。
 遠くを見る様な目で栗山はデッサンを見て「フーン」とだけ言った。
 月子は糸を運んだり、電話番をする。
 美咲の作品は壊れた様にねじれた時計、モナリザ風の美女の顔がピンと跳ねた独特の鼻髭のダリの顔になっているものなどが織り込まれていく。基調の色は赤と紺。美咲は、
「ダリの髭をもっと強調して」と命じている。
「こんにちは」と織田が作業場に入ってきた。
「あら、いらっしゃい。今度の作品はこれよ。あぁ、月ちゃん、お茶お願い」と織田と住まいの方へ行った。
「失礼します」とドアを開けると、美咲は織田の首に手を回して、耳元で何やら囁いている。月子はお盆ごと残して、部屋を飛び出た。
 織田は流行りの片方そり上げ風の髪型で、大きな目のハンサムだ。帰り際、作業場の掃除をしている月子に近寄ってきた織田は
「誤解しないでください、僕は美咲先生の恋人でも何でもありません。」と小声で言った。
「私とはなんの関わりもありません」
 月子はすげなく返事した。そこへ、鞍馬美術学校の講師もしている栗山が帰ってきて、ピンクの可愛い花の野草を渡した。
「お帰りなさい」月子は受け取ると、薄青いガラスの花瓶にさし、栗山に笑いかけた。
 織田はいつの間にか、姿を消していた。

 美咲のタペストリーは、ウラン、原爆雲を暗示したダリの作品が、次々写されていた。(ユニークだけど、ここまで模倣的だと問題じゃないかな?)と月子は思った。 
 月子は自分の時間を持てる様になっていたので、クチナシ、イヌタデと新しい材料で糸や布を染め、濃淡の工夫も重ねたりして毎日が楽しかった。
 「ブブー」車のクラクションでハルジオンを摘んでいた月子は頭をあげた。黒い車から織田が顔をだした。
「月子さん、美咲先生は若い男には誰でも親しげにされます。貴女に誤解されると悲しい」
 織田は窓越しに言い残し、車は走り出した。
 東京の美咲の個展の評判は芳しくなかった。(ダリそのものじゃないか)と新聞でも叩かれ、美咲は荒れていた。夕方、織田が顔を出した。
 美咲は流し目で彼を誘ったが、
「美咲先生、今日は僕、栗山先生の本の出版の件で伺っていますので」
 織田の言葉に美咲は不愉快な顔をした。

 一年経った。
「新人賞が半年後に開催される、皆頑張って」
 栗山が全員にはっぱをかけた。
 月子は就寝前に自分の家を出て、あたりが開けた小山まで行って空を仰いだ。上弦の月がこうこうと光を放っていた。
 昨日、母から電話があった。
「おばあちゃんが、心臓発作でね……亡くなったの。いい、月子、おばあちゃんからの最後の言葉よ。『月子、新人賞、頑張りなさい。帰ってこないで、自分のする事を、今、出来る場所でやり遂げなさい』って」
「大好きなお月さま」と、流れる涙もそのままに暫く仰ぎ見ていた。祖母の志保がそばにいるような気がする。「よく見てごらん」と志保の囁き声に導かれるように目を凝らした。
(月は地球の惑星。太陽系の惑星は水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星。太陽に近い四つは岩石性の星、木星から遠い四つはガス状で太陽と似ている……と最近講演で聞いたところだ。どこまでも広い宇宙は漆黒の布に染め、惑星たちを各々想像し、創造して織ってみよう)
 月子はテーマが決まって心が落ち着いた。
「おばあちゃん有り難う」と月子は呟いた。
 先輩から大きな天体望遠鏡を借り、月子は夜ごと空を見上げた。土星の黄色に輝くリングも惑星の塊だそうだ。惑星中最大の木星の赤道に平行な数条の帯もはっきり見え、月子は興奮した。栗山が育てている紫草をもらって木星を織ろう。
 太陽はベニバナだ。日没直後か日の出直前しか見えない水星は桑染めで。金星は肉眼でも見えるほど明るいので、タンポポで染めよう。火星は赤い星なので蘇芳(すおう)を使おうかな、地球は青い星だそうだから生藍染でいこう。次から次へと湧くイメージに取りつかれたように月子は創作に熱中した。
 機械の前にいる月子に「虫養(むしやしな)い」といって、織田は美味しいお菓子を置き、頭を撫でていく。月子は会釈するが、目は糸から離れない。ただ栗山の来る気配に気づき笑顔を見せる。
 栗山は均等に弟子の作品を見回って意見を述べている。月子には
「月ちゃん、焦らない、色の品格こそ染色の命という事を忘れないで」と言った。
 作品搬出の五日前に月子の作品は完成した。黒の宇宙の布を所々皴を寄せ各惑星をはめ込んだ。横2.5m、縦2mの大きな作品になった。
 明日、搬出という夕べ、月子は大きな作品を紙箱にふわっと入れて我家に持ち帰った。
 家の前に二本の大きな木が立っているので作品を一杯にひろげて、端を結びつける。
 夕陽があたり、風に布が揺れる。
(木星の紫は奇麗だ、蘇芳はうまくいった。火星そのものだ)
 日は沈んだ。月の明かりを受けた作品を月子は眺め続けた。今宵は満月だ。
(栗山先生に見てもらいたいな)
 不意に湧いた感情に月子は戸惑いながらも、うっとりと胸のときめきを噛み締めた。
(もう九時頃だろう)と月子が思った時、ヒタヒタと足音が聞こえた。
(誰? 栗山先生? そんな事有り得ない)
 目を凝らすと、栗山の作務衣姿が現れた。
「先生、出来ました。有難うございました」
 泣きながら月子は栗山に抱き付いた。栗山も月子の背中を強く抱いて受け止めた。
 月子は空の月を見て
「昨年亡くなった志保ばあちゃん。きっとあの月に住んでいると思う。ばあちゃんもこの作品見てくれるかな?」
 栗山も月子を腕に抱き、月を眺めていた。
(待宵の人は栗山先生。やっぱり来てくれた)
月子はうれし涙で栗山の胸で泣き続けた。

-fin-

※すくも藍
 アイの葉を発酵・成熟させると、すくもという染料になり、濃紺に染めることが出来る


※蘇芳(すおう)
 黒味を帯びた赤色。日本の色(伝統色・和色)

テーマ:待宵の人
平成28年11月14日

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