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も一度 見せて

 昭和21年の冬、二歳年下の妹が生まれ、私はその時から父と寝る様になった。母のおっぱいは妹に占領され
「幸子、お父ちゃんの耳たぶ握って寝なさい」
 と、母は提案。
 父はこそばがりもしないで、大きくてたっぷりと厚い耳たぶを握らせた。私がぺんぺんと艶のある耳たぶをゆすると、父は「フッフ」と笑い、二人共すぐ寝入った。
 私は五歳になって久し振りに父の布団にもぐり込んだ。白っぽく光る耳たぶを握った。
「貝みたい。真中に風の通る穴がある」
 私は顔を近付け穴にフッと息を吹きかけると、寝入りばなの父は首を捻(ネジ)った。
 すると、目の前の耳たぶはグアーンと広がり、見渡す限り続く原っぱに私は立っていた。
「ここ、どこ?」と、私はキョロキョロした。
「お姉ちゃん、れんげ一杯」
 妹が草叢(ムラ)に座り込み、つたで編んだ籠にピンク、黄、青の山野草を入れていた。
―メエーッ― どこかで山羊が鳴いている。
 母が父のセータを編み直した、もっさりした焦茶色の毛糸の上下を、私も妹も着ている。
 柔らかい日差しが温かい。
―幸子、あっちに風の吹き上がる深い穴があるから近付いたらあぶないよ―
 母の姿は見えないが、どこからか声が聞こえた。
 母の注意を無視して、二人でデコボコした道が底迄続く穴を、腹伏いになってのぞき込んだ。
 と、ムアーッとした暖かい風が吹き上がってきて、いいにおいがした。
 途端に私も妹も眠くなり・・・・・・目が覚めると朝で、私は一人、布団の中にいた。
「お父ちゃんの耳たぶで草摘みした」
 飛び起きて父に報告した。
「そうか、幸子も不思議に出会ったか」と驚かない。
「何であんな事おこったん?」
「わしにもよう判らん」
 父は当惑した顔で自分の耳たぶを引張った。
 六歳の夏、も一度父の耳の不思議に出会った。広がった父の耳たぶに寝ころんで、暗闇に炸裂する無数の花火を見た。赤黄緑で形も様々な光が真上から降り注ぐ。ドドーンと花火は深い窪みより打ち出され、音は地響きになった。
 平成三年、病床にあった父は88歳で天に帰った。通夜の晩、55歳の私が付き添った。きらきらした厚い布団に父は眠っている。
「お父さん」
 私は父に添寝して耳たぶに触った。冷たい。耳に口を寄せそーっと何度も息を吹きかけた。耳たぶはいつ迄も元の大きさのまま、不思議はもう起こらない。
 私の涙はとめどなく流れ続けた。

-fin-

テーマ:人間の体のどこかが変化するとんでもない話
平成二三年五月十日

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