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ラ・クラカチャ

 我輩は青年のゴキブリである。名前はまだない。
 世界中に吾輩の仲間達は住んでいて、日本には二三六億匹はいるだろう。しかも先祖は三億年前に出現したという超長い歴史を持つ。
 人間の家に住まいする種類の我々は体長三~四㎝で、吾輩も食器棚の裏をねぐらとしている。
 人間共は我々を見ると
「キャッ! ゴキブリ」
 と大声をあげ、古くはスリッパ、新聞紙を丸めたものを我等に叩きつけようと迫ってきた。最近は洗剤、殺虫剤で我々を退治しようとする。黒褐色で平たい楕円形の体、油にぬれた様なつやのある原始的昆虫の我等は逃げ足の速さは定評がある。
 この家に一人で住む四二才の澄子さんは清潔好きで、毎日到る所を掃除する。
 吾輩は住処(すみか)で身をひそめていて、真夜中に澄子さんが掃き清めた台所へ忍び出る。
(さすがに綺麗にしてあるなあ。収獲物はゼロか?)
 と臭いを嗅ぎ続けていると、かすかに漂う油の臭いをキャッチした。
 調味料を入れてある引き出しの前の床に一粒だけ『天かす』が落ちている。
(天の恵み!)と走り寄り口に入れた。
(うまい、ごま油を使ったのだな)
 とにんまりしていたら、パッと電気がつき澄子さんが殺虫剤スプレーを吾輩めがけて吹き付けた。
 吾輩は右に左にと逃げ、必死で住処のある細い隙間に姿を隠した。
 シュシュと頭がくらくらする薬が吹き込まれる。
「こりゃ、だめだ。アジトを変えよう」
 吾輩は食器棚の裏をよじ登り、天井すれすれの所にかじりついた。
 薬のせいか、体がしびれてきた。
(もう、駄目か……吾輩は死ぬのか)
 と弱気になった時、亡くなったおじいちゃんの遺言を思い出した。
(なあ孫よ、メキシコで愛されている有名な歌『ラ・クラカチャ』を知っとるか。それはスペイン語でゴキブリということで、その歌に何度も出てくる。『パンチョ・ビリャ』という農民出身の大男が義賊となり、時の勢力者討伐の為、北部師団を作った。その師団の歌となったみたいじゃ。ビリャは馬を巧みに乗り回し、女性を愛し、義侠心に富み、本物の男と皆に慕われた。歌誌にもパンチョ・ビリャという文言(もんごん)も入っている。我々は人様に忌(い)み嫌われているが、高らかに我々を歌ってくれる国もある。自信を持って生きるのじゃ)

(そうだ、吾輩は今からラ・クラカチャと名のろう。何だか体に力が漲ってくる気がする。澄子さん、もう暫く一緒に住まわせてね)
 と吾輩は呟いた。

-fin-

テーマ:「吾輩は○○である。名前はまだない。」で始まる文章  
 平成二六年九月八日

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