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桜、桜、やよいの空は……

 明治三十三年に山木千代は生まれた。船場の綿製品を大きく商う問屋『丸正』の長女だった。兄の藤吉郎と弟二人の男兄弟ばかりだったので、ワンマンの父弥四郎は娘千代を溺愛した。
 千代は幼い時から目鼻立ちがはっきりしていて、くっきりした二重の目、ほどよい高さの鼻、かわいい口元でにこにこしていると
「ほう! とうさんはえらいべっぴんやなあ。先が楽しみや」
と大人も皆見とれるほどだった。

 母、美世は芸事が好きで、六才から藤吉郎に尺八、千代に三味線を習わせようと楽しみにしていた。

 隣町に四十五才になる三味線の米(よね)華(か)師匠が住んでいて、美世は千代を連れて挨拶に行った。    
千代が三味線を見るのは初めてだった。
「千代ちゃん、見てごらん。これが三味線だよ。四角い形の平らな胴があるだろう。この胴の両面に白い皮が張ってある。これはね。猫の皮なんだ。びっくりしたかい」
 ふっくらとした師匠は、こわばった千代の顔を覗きこんでふっと笑ってから話を続けた。
「一寸角の細長い棹が胴を突き抜けているね。そこにほれ、三本の絹糸が張られ、一番上の三つの糸巻きに巻き取られているのがわかるかい」
 師匠は三味線の部分々々を指さしながら説明を終えた。
「ビーン、ベベーン」
 と、師匠はやおら三味線の胴を膝に置き、右手に持った象牙の銀杏型の撥で糸を弾いた。
(おっきな音)と千代は驚いた。
「千代ちゃん、来週から一緒にお稽古しましょうな」
 コクリ……と千代は頷いた。
 師匠は子供用の小型の三味線を出してきて千代の前に置いた。
 横たわっている三味線の三本の糸を千代は一本ずつペン、ペン、ペン、と弾いてみた。音階の違った澄んだ音がして『空気が震えている』と千代は思った。快い気分だった。

 千代は土曜日ごとに女子(おなご)衆(し)に付き添われ三味線のお稽古に通った。
「きちんと背筋を伸ばして正座し、撥を持つ右手首の角度に気をつけ、左手で糸をキチンと押さえる」
 師匠の声の合間々々に(ペ~ン)と間延びした千代の糸を弾く音が入り、一時間が過ぎた。

千代は三味線の音が好きで、家でも暇さえあれば稽古に励んだ。
 二年経った頃、父親の弥四郎が
「千代、三味線やっとるな。結構結構。ましな音が出る様になっとるじゃないか」
 と、稽古を覗きに来た。
「お父ちゃん、今『松の緑』を習ってる」
 千代は小さい曲をいくつか終え、誰もが必ず出会う『松の緑』を完成させようと頑張っていた。
「あんたぁ『松の緑』をもうお稽古してるのは大した事なんですよ」
 いつの間にか姿を見せた美世が嬉しそうに言った。

 そして一〇年が過ぎた。一六才の千代は長唄の難解な大曲『越後獅子』もこなすようになり、二〇才の藤吉郎も尺八の腕を上げてい
て、師匠の代理稽古を勤めるようになっていた。
 父、弥四郎は月見の宴に客を呼んで、子供達の三味線と尺八の合奏を披露しようと計画した。
 九月十五日、夜半、座敷の障子と雨戸は開け放たれ、太い蝋燭が四カ所に点され、電気は消された。座敷の緑色の座布団に客が次々座っていく。米華師匠もいる。
廊下に、月見団子と芒が飾られている。月の光が、庭の木々をほんのり浮かび上がらせていた。
 床の間近くに金屏風が立てられ、赤い毛氈がひかれていた。
 その前の芥子色の座布団に、紋付き袴の藤吉郎とあらたまった黒っぽい着物の千代が座った。

「ヒュウ、ルルル」
 と、藤吉郎の尺八の音が、薄暗闇に響き、千代の三味線が
「シャシャーン」 と、後を追った。
 高く低く、二つの音色が織り合わされ、早く遅く、調べは流れていく。
 千代の顔は、蝋燭の光で浮き上がり、一層美しく、目がキラキラ輝いている。
 撥は鋭く糸を弾き、左指は滑るように、糸の上を走る。
 藤吉郎は時々目をつぶり、静寂な夜の気配に漂う音を味わっているようだった
 座敷はシーンとしている。

 波の大きなうねりの様に、二つの楽器の調べは合わさり強まり、演奏は終わった。

 大拍手が起こり、電気が点いた。

「結構でしたな。御二人共、お上手ですな。『丸正』さんが羨ましいですわ。立派な跡取り息子と別嬪の娘もいる。家業も繁盛。言う事おまへんな」
 客は口々に、喜色満面の弥四郎に声をかけた。
 米華も満足そうな笑顔だ。今日の演目は米華の作曲したオリジナルだったのだ。

 客の中に、源之助という一九才の若者がいた。藤吉郎の尺八仲間が連れて来たのだ。
「源之助、珍しい二胡を習っていて、是非今晩の演奏が聴きたいと聞かないので、潜り込ませてやった」
 と、仲間が言った。

 藤吉郎と千代の前で、源之助はペコリと頭を下げた。背が高い。ふさふさと黒く、やや長めの頭髪が額にかかるのを、手で邪険に払って、まっすぐに源之助は千代の目を見つめた。
「俺の引く二胡も、一度聴きにきてください」
 と言う源之助に千代は驚き、困った顔をした。なんたって、初対面なのだ。
「私、二胡、見た事もありません」
 と、一息置いて、千代は答えた。
「そうでしょう。二本の弦だけで弾く中国楽器で、日本では余り見かけません。哀愁を帯びた良い音がします。是非、音色を聴いてください」
 と、たたみかけるように言う源之助を、藤吉郎と仲間が面白そうにみていた。

 源之助は広島の生まれだが、大阪の高等学校の学生だった。
 彼は船場からバスで三駅離れた河原町にある家具商『劉(りゅう)段通店』の六畳の離れに下宿していた。
 劉さんの扱う絨毯は、全て母国の中国製だ。八畳間用の重厚なものから、花瓶を置く位の小さい物まで揃っていて、売り場は華やかだ。

 五〇才の劉さんは、小さい頃から祖父に二胡を習っていた。二胡は日本に数台あるかどうかの稀少品だったので、その哀愁ある音色を聞きに尋ねてくる人もいるほどだった。

 源之助は小さい時から空への興味が強く、ゆくゆくは宇宙の研究者になりたいと思っていた。
 下宿で生活し始めた頃、部屋から狭い庭の木々越しに、何時ものように夜空の星を眺めていた。その時、源之助の耳に悲しげでいて心を安らかにする音が、母屋の方から聞こえてきた。
 音にひかれて辿っていくと、母屋の座敷で、椅子に腰かけた劉さんが、六角形の胴を膝にのせて、体を揺らしながら、右腕を動かしていた。
 胴から出た棹に張った弦を、弓で引いているのだった。聴衆は五人だ。
(何と心に沁みる、情感豊かな音か。これはなんという楽器なのか)
 源之助は魅了された。
「二胡」
 という劉さんに
「是非二胡を教えて下さい」
 源之助は演奏終了後、直ちに劉さんに頼み込んだ。
(星を見ながら二胡を引きたい)
 源之助の心ははやった。
「厳しいぞ」
 と、劉さんは笑っている。
 六角形の胴(琴筒)にはニシキヘビの皮が張られ、弦は馬の毛だそうだ。

 二胡を始めて二年経った頃、月見の演奏会で源之助は千代と出会ったのだった。
「二胡をお聴かせします」という源之助の再三再四の誘いに、十月の十日、千代、藤吉郎、尺八の仲間の三人が源之助宅を訪れた。
 源之助はにこやかに、部屋に案内し、窓を背にした椅子に座った。向かい合った椅子に三人が座ると
「演奏始めます。曲名は『二泉映月』です」
 と、やや硬くなった言い方をした。

 三味線とは趣きの違った、愁いのある深い音色を弦は奏でた。
(体ごと静かに持ち上げて、ゆっくりと揺すられるような……。なんと良い響き)
 と、千代は驚いた。
 藤吉郎達も、身を乗り出して聞き入っている。
 弓はしなり、胸の底まで音が沁み込んでくる。
(癒やされるとは、こういう感じなのだ)
 千代の目には、かすかに涙も浮かんでいた。

 演奏が終わる頃、劉さんもそっと来て、皆の後ろに立っていた。
「皆さん、ようこそ。私の弟子の二胡の演奏を聴きにきてくれはって、ありがとう」

 劉さんは、力一杯拍手する千代達に太い声で声をかけ、中国茶をふるまってくれた。
 源之助は絶えず千代の顔を見るので、千代は顔を赤らめた。

それ以来、源之助と千代は、手紙のやりとりをするようになった。
 千代はますます、美しさに磨きがかかり、華やかな笑い声をあげるようになった。

 ある日、藤吉郎がかしこまって、弥四郎の前に座り
「お話があります。私はこの家の総領息子で、店を継ぐ立場ですが、どうしても尺八の道に進みたいのです」
 と、真剣な目で話し出した。
「どうか、弟達を後継者に」
 と、畳に頭をすり寄せて言った。
「まあ! あんたは何を言い出すの」
 母美世が驚いて、大きい声で叱責した。
 が、弥四郎は落ち着いて
「藤吉郎、お前の決心がかたいなら、尺八の道を極めるのも良い。ただし、弟達には家業は継がせん。儂は千代に養子をもらって、継がせたい」
 と、言ったので、美世は口をポカーンと開いて、夫の顔を穴のあくほど見つめた。
「関西では、昔から嫡男がおろうが、より商売にふさわしい男性を選んで娘にめあわせて跡を継がせるという慣習がある。大体、儂はかわいい千代を他家へは嫁がせたくない」
 と、話し出した。
 藤吉郎は父の大目玉を覚悟してたので、ほっとしたような顔をして、美世を見た。
 美世は青天の霹靂に言葉もでない。
 この話を聞いて千代は青ざめた。
「私は源之助さんが好きなのに、お父さんひどいやないの」
 千代は母親に訴えた。
 美世もどう答えたらいいか途方にくれている。
 業者の寄り合いから帰って来た弥四郎を待ちかまえて千代は
「私は源之助さんのお嫁さんになりたいのです」
 と詰め寄った。
「千代や。お前の様に何不自由なく育った娘に、つましく暮らす天文学者の奥さんがつとまるはずがない。儂に任せておけば間違いはないのや」
 弥四郎は酒も入っていたのでそれだけ言うとさっさと寝に行ってしまった。
 その晩、千代は父の考えを源之助への手紙に書いた。
「どうしよう、どうしよう」
 という文字も乱れている。
 手紙を受け取った源之助も衝撃を受けた。
(俺はまだあと一年学生の身。千代のおやじさんに、娘さんを嫁に下さいという資格はないし)と打ちのめされた。

 千代は時々、三味線の稽古と偽って、源之助のもとへ行った。
「うちのお父さん、一度言いだしたら誰の意見も聞いてくれはりません」
 涙を一杯ため、肩を振るわせて千代は源之助に言った。源之助は、千代の体を抱きしめたあと黙って二胡を取り出し
「桜、桜、
やよいの空は
見渡す限り
かすみか雲か
においぞいずる
いざやいざや見にゆかん」
一度は静かにゆっくりと、二度目は早く明るい調子で「桜」を引いた。
「千代ちゃん、来年春、俺は二十二才で大学を卒業する。君は十九才になっているね。桜の花が咲く頃、二人で大阪から去ろう」
 思いがけない源之助の言葉に千代は目を見開いて源之助の顔を見た。
「だから、もう泣かないで」
 囁く源之助の腕の中で頷きながら、なお一層激しく千代は泣いた。

 千代は女子衆に混じって、家事も熱心に手伝う様になった。美世は複雑な顔をして
「お父さん、千代、えらい家事に励んでます。源之助さんのことふっきれたのですやろか」
 と話すと
「ふーん」
 と、弥四郎は言ったきり、その話には取り合わない。

 年の瀬になった『丸正』は最後の追い込みで皆超多忙だった。が、日頃丈夫な美世がこのところひどい咳に悩まされていた。
「休んどけ、お医者にも行ったか」
 弥四郎は声をかけたが
「葛根湯飲みましたさかい。すぐ直りますわ」
 と、美世は取り合わない。
そして、二~三日が過ぎたある朝
「千代、来てくれ。お母さんが苦しそうや」
 弥四郎が大声で千代を呼んだ。
 千代が飛んでいくと、美世が真っ赤な顔をしてハアハアと荒い息をして、寝床に横たわっていた。
 藤吉郎がお医者を呼びに走った。
「お母さん、しっかりして」
 千代は美世の額に、濡れ手拭いをのせ、首筋の汗を拭き取った。
「あんた、すんません。こんな忙しい時に」
 美世は細い声で言った。
「何言ってんのや。もの言わんと静かにしとけ」
 弥四郎は結婚以来寝こんだことのない美世の様子に狼狽えていた。
「千代、水ちょうだい」
 美世は途切れ途切れに言った。
千代の傾ける吸い飲みから美味しそうに美世は水を飲んだ。

 お医者が来て美世を聴診して顔をこわばらせた。
「風邪こじらせただけですわ」
 と、美世に言って、弥四郎を部屋の外へ誘(いざな)った。
「肺炎、おこしたはります」
厳しい顔してお医者は内服薬を手渡した。
 その晩も翌日も、高熱は下がらず。美世はゼイゼイと苦しそうな息だ。
 お医者が又呼ばれたが、既に美世の意識は無くなっていた。弥四郎、藤吉郎、千代、弟達が見守る中、数時間後、あっけなく美世はこの世を去った。

 一ヶ月が経ったが、弥四郎は死んだ様になっている。食事もろくに取らない、一日の殆どを美世の部屋で虚ろな顔をして座り込んでいた。
 仕事は熟練の番頭が指揮を取り、事なきを得ていた。

 千代の悲しみ、苦しみは何層にも重なっていた。母親を亡くしたつらさ、父親の嘆きと憔悴振りへの不安、そして恋する源之助との約束……。

 そして又、一ヶ月が過ぎ、二月になっていた。
弥四郎は少し立ち直ったかの様だが、あのワンマン振りはすっかり影をひそめてしまった。
「千代、千代」
 と、何かに付けて千代を側に呼びたがる。

 遂に千代は源之助への手紙に
『春の二人の出奔(しゅっぽん)は叶いません。心の弱ってしまった父を見捨てる訳にはいきません』
 と血の吐く思いでしたためた。

 三月に入って少し暖かい日、ひっそりと源
之助と千代は、市内からバスで小一時間のと
ころを流れる『石川』の土手に立っていた。まだ蕾みだけの桜の木の下に、石のベンチ
がある。
二人はそこへ腰かけて、各々持っていた大
きな袋から三味線と二胡を取り出した。
夕陽が川面を染め始めていた。二人は顔を見合わせた。
「桜、桜、やよいの空は……」
 三味線と二胡の合奏で「桜」を奏でだした。夕陽の回りの雲も茜色に燃え、逢魔(おうま)が時の
暮れなずむ前の空の青色を際立たせている。
「桜、桜、やよいの空は……」
段々と薄暗くなっていく中で繰り返し繰り
返しひかれる「桜」の唄。
 千代は忍び泣き
「源之助さん、堪忍してね。あなたと一緒に
なれなくて」
 と、嗚咽の中で途切れ途切れに言った。

平成二十六年の二月
 四十二才の独り暮らしの冴子は、二胡の手入れをしている。両親も早く亡くし、一人っ子の冴子は二胡の師匠だった。
 冴子は皆が目をそばだてるほどの美女だった。演奏会で淡い水色のドレスを着て、二胡を引く姿は絵から抜け出した様だった。
『妖精の様な冴子師匠』には大勢の生徒がいた。
 五月の生徒の演奏会も近いので、各々の曲目を検討しながら二胡を柔らかい布で拭いていた。

チャイムが鳴った。
 大きい荷物が届いていた。高さ1.5m、縦、横30㎝の立方体を分厚い紙で包み、何本かの紐で縛ってある箱の様だった。持ち上げると、カタコト音がしたので、そーっと荷物を体に添わして固定し、ゆるゆると居間に運んだ。
 送り主の名前を見ると『山木陶太』とある。(陶太って誰?)
 心あたりのないまま鋏で紐を切って箱を開けた。
 出てきたのは木箱。桐で出来ているみたいだが、木の肌がくすみ茶色っぽくなっている。前面の右手に取っ手が付いていて、下の方には桜の花が描かれていた。底は引き出しになっている。取っ手を引っ張ると「ギギッ」と音がして中から三味線が出て来た。少しかび臭いにおいがした。
(三味線だ)
 冴子は目を見張った。
 箱の側面に白い封筒が貼り付けてあった。
(初めてお便りします。私は山木藤吉郎の曽孫にあたる陶太と申します。藤吉郎の妹にあなたの曽おばあさまの千代さんという方がおられますね。この三味線は、その千代さんの物の様なのです。我が家の庭に古い倉があり、先日、家内と整理していましたら、奥の方からこの木箱が出て来ました。中には格調ある三味線が入っていて、下の引き出しを開けると、古い日記が入っていました。読みますと、山木千代さんの日記だとわかりました。親類中あちこち尋ねて千代さん直系のあなたの存在を知りこうして送らせて頂きました。どうぞ大事になさって下さい)
 と、読んできて冴子はびっくりした。
昔、亡き母に美しかった曽祖母千代の事を聞いた事があったのだ。
 急いで引き出しを開けると、象牙の撥と紫色がかった表紙の日記が入っていた。そして、写真も三葉。冴子はものも言わず、貪る様に日記を読んだ。千代を取りまく人々、千代の日々、千代の気持ちが細かく書かれていた。食事をするのも忘れて読み続け、冴子は泣き出した。余りに生々しく、楽しくも悲しい千代の人生に胸打たれたのだ。
 そして、写真の千代と冴子が余りにも良く似ているのに驚愕した。
(千代ヒイバアチャン)
 冴子は口の中で呼びかけ、日記と写真を胸にかき抱いた。

 桜の季節が巡ってきた。
 冴子は自宅の庭の桜が満開になったある日の夕方、千代の三味線を箱から出し、たてかけ、自分の二胡を手に取った。
 ガラス戸を開けると、朱色のまぶしい夕陽が庭の桜を照り輝かせている。
 普段の優しい桜の色とは異なり焔(ほむら)色だ。
「桜、桜、やよいの空は……」
 冴子は椅子に座り、二胡を引きながら「桜」を口ずさみはじめた。
 千代と源之助を思い涙が滲んでくる。
 と、その時、隣に置いた三味線が「桜」を奏でだした様に思えた。
(えっ! )と冴子が三味線を見ると、炎の色に染まった弦を、宙に浮き上がった銀杏型の撥が弾き二胡の「桜」に合わせている。
 千代は驚かなかった。流れ続ける涙をそのままにして、二胡を引き続け唄い続けた。三味線も追っかけてくる。あたりは少しずつ暗くなり始めて、逢魔が刻(とき)になろうとしていた。
 冴子は桜の木の上遙かに、うっすらと、若い源之助と千代が肩を寄せ合ってこちらを見ているのを気付いた。
「源之助さん、千代さん」
 思わず呼びかけ、思慕の情を押さえて、桜の調べを引き続けた。
 二人は笑っていた。
 幸せそうだった。
「良かったね。やっと一緒になれたね」
 と、冴子は呟いた。

 すっかり暗くなって二人の姿はもう見えない。冴子はその場を動かず満足気な顔で座り続けていた。
 三味線も静まっている。

-fin-

テーマ:男性が出産したならば  
 平成二十八年五月九日

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