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© 2016 by 小川瑛子. All rights reserved.

画狂人

 私は日本一高くて美しい富士山。
 三七七六mの優美な山容は日本の象徴として国外でも有名だ。活火山で三百年前の爆発で現在の姿になった。
 私は自分の姿を東下方向にある河口湖に写してみる事がある。頂上の白い雪となだらかな裾野の一部がはっきりと湖面に見えて
「なかなかいい姿じゃ」
 と、一人悦に入る。
 どれだけの人が私の頂上をきわめ、朝日を拝んだことか。見晴らしの雄大さに歓喜したことか、はたまた、あらたかな信仰の心を芽生えさせたことか。
 私に関心を持った膨大な数の人の中に、とてつもなく奇妙で汚い風体の爺さんがいた。江戸時代後期浮世絵師、葛飾北斎。六十才の頃から私に深く執着し、八年がかりで私の姿を幾つもの角度から見つめ、三十六枚の錦絵に残した。

「おーい、爺さん、朝早うからご苦労さん」
 私は、ぼろをまとった北斎(その頃為一《いいつ》と称す)に声をかけた。
 朝焼けに赤く染まっている私を画面一杯にデッサンし、回りに鰯雲を散らしていた北斎は
「あー」と返事をしたがそれっきり、ぎらぎらする目で私を見つめている。
「雲が、穏やかな一日が始まるだろうと教えてくれとる」
 筆を口に横にくわえて北斎は一瞬和んだ顔をしていたが、次に筆を持ち直すと、一気に私を曙色に塗っていった。白い雲に、薄い青緑の空、裾野の樹林は縹(はなだ)で細かく埋め尽くす。
「なかなか奇抜な絵じゃのう。けど私の今の気持ちをよう捕まえとる。良い出来、良い出来」
 私は感嘆の声を発した。
 けれど北斎はむすっとしたまま、私の頭上の雪の跡を整えていた。
「これはまさに『赤富士』じゃ」
 私は独(ひと)り言(ご)ち、深くその技に感銘を受けた。

 私の嫌いな稲妻が、山麓一面に走り、地上の人達はおそらく俄雨(にわかあめ)に逃げ惑っているだろうと思う日があった。山腹より上は快晴で夏雲が浮かんでいる。
「おかしな日じゃ。足元が稲妻でチクチクとむず痒いし、雨水で浸っているのに、頭の方はすかっとしておる」
 私はぼやいて、ふと斜め下を見ると、菅笠に蓑をかぶった北斎が、棕櫚(しゅろ)の下で絵を描いているのが目に入った。
「おーい、ご苦労じゃのう、北斎」
 大声で声をかけると、北斎は菅笠をつとあげて
「富士さんよお、おかげで凄い迫力のある絵が描けましたわい。『山の下の白雨』の版画絵ができもうした」
 と、にやりとした。
 私の右下に、烏賊(いか)の泳ぐ姿に似た、薄茶の折れ曲がった稲妻、焦茶と黒の山、上空は晴れ晴れと青と白の世界が描かれていた。
「私が天も地も自然現象をも超えた存在と認めておる。凄い絵描きがいるもんじゃ」
 私は呻った。
 そこで北斎をもっと知りたくなり行動を追うことにした。
 絵を蓑でおおって雨の中、北斎は自宅へとよろめき乍ら足を運んでいる。
 ぼろ屋の建付けの悪い戸を開けて、北斎は家の中に入った。
 入り口に、草履、下駄が散乱。部屋の隅には蜘蛛が巣を張り、食べ物の入っていた包みがあちこちに散らかし放題だ。こたつが一つあり、火鉢、炭団(たどん)だけが目につく。
「汚いのう」
 私は眉をしかめた。
 北斎は下帯(したおび)一枚になり、すぐこたつで眠ってしまった。

 日頃、山腹に遊びに来る鳶三羽を私は伝令係にしているのだが
(年中、饐(す)えた様なこたつ布団の中で絵を描くので虱(しらみ)もわいているそうでございます。金銭には無頓着で、赤貧の日でございます)
 鳶①から北斎の報告が来た。
 私は唖然とし『そこまでとは思わんかった』と溜息をついた。
(富士様、北斎は家がごみ一杯になると、すぐ引越しをするそうでございます。今迄で五十回には達しているとの事で……)
 これは鳶②の御注進。
「あーあ、難儀な奇人だが、それ故あの様な奇抜な優れた絵が描けるのであろう」
 私は何だか妙に納得してしまい、楽しい気分になった。

 時をおいて
 鳶③から報告が入った。
(北斎は神奈川におり、荒れた海で舟に乗り鮮魚を運ぶ舟を描いております)
「神奈川とな。あそこからじゃ私は海の彼方に小さくしか見えんじゃろう」
 私は目を細めて遠くを見る目になった。
「よし、お腹に力を入れて大きく目を開けばそのあたりの光景も見えるやもしれん」
 精一杯眼(まなこ)を広げ、かすむ灰色の空気の中をじっと見つめた。

 ずっと遠くに見えた。見えた。
 波は大きく立ち上がり、白い波頭が空中で砕けて海に落ちていた。小舟が三隻(せき)、海の言うがまま、曲芸の様に上下に揺すられている。七~八人の漁師達が顔を舟べりにひっつける様にして必死で櫓(ろ)を操っている。舳(へさき)にはゴザで覆われた魚が載っているのだろう。大波は容赦しない。空まで伸び上がったかと思うと、歯をむいて舟を襲うかの様にドドーッと落下を繰り返す。
「北斎はどこにおるのじゃ」
 私は胸騒ぎがして落ち着かないまま、遠くの海を見つめていた。

 三日程して北斎は杖をつきつき、河口湖畔まで来て
「おーい、富士さんよお。鳶のお使いが来て
『顔を見せよ』との事なのでやって来ましたわい。神奈川の沖では、小舟の上で死ぬ思いでしたが、ほれ、こんな錦絵が出来ましたぞ。見て下されや」
 と、見せてくれたのは、先日、目にした怒濤(どとう)の様に荒れ狂う海と巨大な波が飛沫をあげ乍ら小舟に襲い掛かる版画絵だった。ムズムズと波の白い指が形を変えながら、漁師達を鷲捕みにしようとしている。そして、はるか彼方に私が小さく描かれている。黒と紺と白の構成。
「よくぞ、こうまでして描けたな、波の形と配分の面白き事よ。北斎。そなたはまことの天才じゃ」
 私はそれだけ言って、感嘆の余り後言葉が出ない。
 北斎はガリガリと頭を掻いて
「『神奈川沖浪裏』という題をつけましたのじゃが」
 と、ボソッと言った。
「オーオー、そうかはるか沖の『浪の裏』か。まさに波の体の内部や裏まで描いておるものな。なるほど、なるほど。ところで次はどんな風景を描くつもりじゃ」
 と尋ねると
「又、旅に出て、働く人を描きたいと思うとります。勿論、富士山の拝める所で」
 珍しくハッキリとした口調で言って、北斎は無精ひげの顎を撫でた。

 雑な紺縞の木綿、柿色の袖無し半天、六尺の天秤棒を杖にして、わらじ姿で飄然と北斎は旅に出た。北斎は貧しく不作法だったが権威や富で動かず、気位は高かった。
 のんびりと歩きながら、北斎は津軽藩主の屏風絵騒動を思い出していた。
『藩主の依頼を受けて屏風絵を描いてもらうべく、使者が何度もわしを招きに来た。わしはその時、気が進まず、一向に腰をあげない。使いは十日程して五両を出し同行を促したが、やはりわしは動かなかった。その後も再三、再四使いは訪れたがわしは断り続けたので、怒った武士は〝そなたを切り捨て、私も自害する〟と言った。そこでわしは〝五両は返せばいいんじゃろう〟と言い大騒ぎになった。けど数ヶ月後、招かれないのに突然藩邸に行き、屏風一双を仕上げて帰った。あの時はお武家さんに気をもませて気の毒な事をしたのう。わしが偏屈なばっかりに』
 謙虚な気持ちになりながら、甲斐の国(山梨県)より三島へ抜ける山道で、北斎は、はたと歩みを止めた。
 五、六人の男が手を伸ばして幹の周囲をかかえるほどの巨木が立っていて、その後方に富士山がそびえていた。木の根元で荷を降ろし、煙草を一服する者、木の肌に両手で貼りついて、大きさを確認しようとする者、山道を下っていく者がいる。
「あっ、これは良い」
 北斎の目が光り、腰を下ろすや画帳を広げた。
 紙の中央に、年数を経て、木の肌にごつごつとしたこぶのある、とてつもなく大きな木を一気に描いた。次にこの木にさえぎられた形の富士山を右後方に描く。藍色の富士の山頂は笠雪がかかっている。
思いも及ばぬ視点に、我ながら面白いとにんまりした時、どこからか鳶①が現れた。
(この絵では富士様は大欅(けやき)の引き立て役でござりますな。なかなか粋でござりますな)
 と、ピーヒョロ北斎の周りを飛んでいたが
(それでは富士様にあなた様の御様子を御知らせにまいります)
 と言うので
「鳶や、この絵〝甲州三島越え〟を仕上げたら、わしは尾州(名古屋)不二見原へまいると富士さんに伝えてくれ」
 北斎は楽しげに鳶を見上げた。

 旅では北斎は時には野宿もし、後援者の寺や豪商宅に二~三日逗留しては、即興図を描いて謝礼とした。
 こうして随分と時を経て北斎は尾州(名古屋)の不二見原にやって来た。富士山から指令を受けた鳶②がこの旅の相棒になっている。
(北斎様、あちらに何やら大きな丸いものと働く男が見えますが行ってみてはいかがでござりますか)
 鳶の言葉に北斎が目を向けると、上半身裸になり、鉢巻をした男が鑿(のみ)を両手で持ち大きな桶と格闘していた。丸い桶の底はまだついていなくて、桶を直角に立ててその内側に乗り、男は片膝を立てて木の面を削っている。男が重しになっていて桶は動かない。たくましい腕がギュッギュッと動き、男は汗だくだ。桶の周りには木槌や荒縄が無造作に転がっていた。
「や、や、や、鳶よ。男の頭の上に小さな小さな富士山が見えるわい」
 丸い窓の様になっている桶のこちらから、遠メガネで男の頭越しに富士山を覗いた感じだった。富士山の手前には、深い緑の森が横一面に広がっている。
 北斎はそそくさと荷を解いて、画帳を引っ張り出した。
「これぞ尾州不二見原だ」
と、一言いって筆を走らせている。
(桶屋の富士……でございますなあ。富士様がこの『絵』をご覧になったら、何といわれますかな。面白い所に目をつけたなと言われる様な気が致します)
 鳶②がつぶやいた。

 この様にして旅をし、月日をかけて北斎は三十六景もの冨獄図を完成させた。折々、伴をしたり、伝達する役目の鳶達も五代目となっていた。
 北斎は錦絵、挿絵、絵本、肉筆図も描いた。その様子は絶えることなく鳶達から私へ知らされていた。

 嘉永二年、北斎は卒寿で臨終を迎えた。
 その時の様子はこう書き残されている。
〝死を目前にした翁は大きく息をして『天があと十年の間、命永らえることを私に許されたなら』と言い、しばらくしてさらに『天があと五年の間、命保つことを私に許されたなら、必ずやまさに本物と言える画工になり得たであろう』と言い、どもって死んだ〟
 この時、新入りの三羽の鳶は揃って見守っていて、その様子を私に知らせに帰った。
「そうか、画狂人の北斎は又もや旅立ったか」
 私はぽつんと言った。
私は体の奥から吹き上がってくる激しい悲しみに襲われた。次に、山全体がかぁーっと熱くなり、熱さが溢れる様になり、どーんと音をたてて私は三百年振りの溶岩を吹き上げていた。

-fin-

テーマ:富士山について
平成二六年二月

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