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お帰りなさい

 私、美紀は四十七才で一人住まい。公認会計士事務所で働いて二十五年になる。大ベテランで所長も重用(ちょうよう)してくれている。丸い目で睫毛が長く、「口元が魅力的ね」と昔から言われてきた。
 八才下に弟時也がいたが、三才の時疫痢にかかり、半日後あっという間に亡くなってしまった。昭和二十六年には適切な薬がなく、両親の嘆く様も今もありありと思い出せる。母は畳にうつ伏し畳を叩いて号泣していた。
 八月二十三日の暑いその日の午前中、時也は近所の子供達のままごと遊びに入って
「学校に行ってきます」という台詞を言うお兄さん役だった。カーキー色の半ズボンに白いシャツを着た時也は、薄茶のゴザに添って並べた下駄を履いて、本が一冊入った小さい袋をさげて歩き出した。お母さん役やお姉さん役の子供達も
「行ってらっしゃい、バイバイ」と大声をあげた。
 ゴザから五軒ほど離れた所で
「あら、時也ちゃんやないの。ふーん、お兄ちゃん役で学校に行くところ?」
 と、顔見知りの太った叔母さんが買い物籠から桃を一つ取り出し
「お三時におあがりね」と時也に渡して去って行った。
「頂いたお菓子、一度お母ちゃんに見せてから食べるのよ」と、母から常々言われているのに余程お腹がすいていたのだろう。小さい路地に入って食べてしまったらしい。ままごと遊びの一番年上の有子ちゃんが色々教えてくれた。

 おでこが広く、眉が濃く、やんちゃっぽい目の時也は眠っている様だった。
 私はそっと頬を触って「冷たい」と言うと、又、母が泣き出した。
父が「美紀、時也は綺麗なお花が一杯咲く世界に旅立ったんだよ」と、鼻声で言った。
 私は力一杯の泣き声をあげて、父にしがみついた。

 父も母も六十代で亡くなった。私は一人になり、古い木造の家に住み続けた。小さな庭があり、ガーデニングが趣味の私が丹精を込めて育てた花がいつも咲いて、光が弾けていた。
 三十才前に事務所の一才年上の男性と恋に落ちた。真面目で静かな男性に私は夢中になった。彼は小さな机と椅子だけ持ってやって来て以来、一緒に住む様になっていた。お互いが求め合った熱情の日々は二年で終わった。彼に別の好きな人が出来て「別れよう」と言った。
 私はどちらかというと、静かでおとなしいと言われていたが、その時は狂乱状態で、ガチャン、バチャン、ガチャンと皿やコップを壁に投げつけた。
 彼は「僕が全て悪いんだ」とだけ言って、目をしばたたいて玄関の外へと去った。

 私は五才の時、父方の祖父の葬儀に両親と一緒に岡山に来ていた。祖父は医者で評判が良く、近所の人達も大勢参列していた。
 母屋は広い来客用の部屋、仏壇、台所、子供部屋があり、表に出るとなだらかな坂になって、『沖の家』と呼んでる一塊があり、診療所、入院室、事務室があった。
 すぐ近くのお寺での葬儀を終えて、親類のみが『沖の家』に集まった。各々、祖父を偲んでお茶を飲んでいた。
 私は家の入り口辺りに何か気配がしたので二~三歩近寄ると、祖父が寝間着姿で立っているのが見えた。
「おじいちゃん……」
 私は小さい声で言うと、祖父はにこっと笑い、手を振ってすーっと消えてしまった。
 皆の部屋に戻り
「おじいちゃん、あそこに立って笑ってはった」と言うと父と十一才年の離れた伯母が
「美紀ちゃん、良かったね。純白な心の幼子には、亡き人の面影というか、姿が見えると昔から言うのよ。私も会いたいけど無理ね」
 と、私の手を取って、祖父のいた辺りに行った。入り口は開けてあったので、緑の匂いを風が運んできた。が、祖父はもう見えない。
「お父さん、私ももう一度会いたいのに」
 伯母は哀しげな目をして言った。

 私には何か気配を感じる様なものが備わっているのかもしれないと、中学校の頃思った。
 母方の叔父の弁護士事務所へ母と行った時の事だ。母と叔父が話している間、私は隣の部屋へ入って行った。ソファーセットが置いてあった。事務所はビルの六階にあって、ソファーに座って外を見ると、青い空だけが見えた。下界の様子も知りたくて、窓際に近づいた。国鉄天王寺駅、線路、様々な形のビルが目に入った。
 その時、右の方から、何やら大きな銀色の風呂敷をくしゃくしゃと皺をよせたような物が、勢い良く舞って近づいてきた。錫を叩いて、いびつな形にしたような……感じとも言えた。それは、光を反射し左右、上下に自在に飛び回っていた。
「あれ何?」
 と思って息を呑んで見ていると、先ほどの物体を一回り小さくした物が追いかけてきて空を舞台に踊っているようだった。
「何これ! UFOの一種?」
 驚きで声も出ない。
 ものの三分もしないうちに、二つの物体は 右の空へと猛スピードで去って行った。
 私は身を乗り出して行方を追いかけたが、白い雲が一つ浮いているだけだった。
 我に帰って、叔父達の部屋に戻り
「今、変な物見た。UFOの一種かな」
 と、早口で大声で言った。微に入り細に入り説明した。
 が、「誰かがリモコンで動かして遊んでいたんだよ」
 二人とも相手にしてくれない。

 その後も部屋の戸が細く開いていたので閉めようと立ちあがったとき、白と茶色と朱の混じった何かが素早く廊下を通りすぎるのも見た。周りをぐるっと探してみたが、なんの変わりもない。
 何の根拠も無いのに何年も会っていない○○さんにこの道で必ず出会うと思っていたら本当に出会って、私自身驚いた事もある。
 そんな事が積み重なって、理屈にあわない存在や影を頭から100%否定する気になれない様に私はなっていた。

 春の月曜日、珍しく私は風邪を引いたらしく熱発もして、事務所に欠席の旨を連絡した。消炎剤を飲み、布団を敷いてごろごろしていた。暫くすると喉の痛みが楽になり、庭のガラス戸を全部開け放った。花々の香りが重なって不思議な匂いがする。水仙、梅、桃、都わすれ、三色スミレ……と寝床に横たわったまま首を伸ばして眺めていた。
 と、その時小さな男の子が花の中にうずくまって私の方をじっと見ているのに気がついた。
「あれ、君は誰? お家は何処?」
 私は布団に座り直し笑顔を少年にむけた。
「いない……」
 そう、姿、形が見えなくなっていた。
 確かに少年はいたはずなのに……
 そのうち眠くなってきて、私は寝床で一時間ほど熟睡していたらしい。
 洗面所に行き顔を洗おうとすると、右腰の横に何かがいる様な気配がする。見ると、花の中にいたあの少年が「クスクス」と笑い『いない、いない、ばぁー』をして見せた。
 言葉が出ない私に「キャッキャッ」と澄んだ笑い声を残して少年の姿は又しても消えた。

 朝、昼兼用の卵雑炊を作り、苺を五粒食べた。咳が出て不快だが、早朝のような辛さは大分薄れていた。
 ピンポーンが鳴った
「誰が今頃?」
 私はパジャマの上にガウンをはおって玄関まで行くと
「美紀先輩、どうされたんですか。これ御見舞いの草だんごです」
 と、会社の後輩の幸代が門の所に立っていた。
「風邪、風邪よ。大事をとって休ませてもらったの。貴女こそ仕事中なのでしょう」
 私は仲の良い幸代の顔を見て嬉しくなった。
「所長が『竹山建築事務所』に書類を届けた帰りに、先輩の所へ寄って様子を見てきてくれと言われたんです」
 と、云いながら門から家まで続く花いっぱいの庭に
「わあー、きれい、いい匂い」
 と、幸代は深呼吸した。
 するとその時、梅の木の横に朝見た少年が立ってこっちをじっと見ている。カーキー色の半ズボンに白シャツ姿。
「ねぇ君、こっちへおいで。半袖で寒くないの?」
 私が呼びかけるので、幸代はきょろきょろと周りを見回した。
「誰かいます?」
 幸代は怪訝な顔で私を見た。
「幸ちゃん、あそこに男の子がいるよ。見えない?」
 私は不思議そうに言って、梅の木をもう一度見た。少年はヒラヒラと蝶の様に両手を動かし笑うと姿は消えた。
 翌日、私が出社すると所長が
「もういいのか? 鬼の霍乱(かくらん)やな。べっぴんさんがやせて何や色気がでてきたな」
 とパンと肩を叩き
「そうそう紹介するよ。今日から事務所の貴重なスタッフになった河野太郎君。四十才のバリバリの独身会計士だ」
 所長は背が高く、浅黒い顔の男性を招き寄せた。
「こちらは北山美紀君だ。何でも知っているから、いろいろ相談してやってくれ。なあ河野君」と、所長は上機嫌だ。
 二人は「宜しく」とお互いの目を見乍ら頭を下げた。幸代が駆け寄ってきた。
 河野君は真っ白な丈夫そうな歯なので、笑うと爽やかだ。頭頂の毛が癖なのか、五本ほどピンとたっているのがご愛敬だ。胸幅が広いから、ワイシャツのボタンが弾けそうだ。笑い声も大きい。独身の若い女性が色めき立っている。
「北山さん、こう処理していいのですね」
 と、河野君が律儀に私の意見聞きにくる。私も「感じの良い人」と好感をもったが七才も年上だし、昔の苦しい恋も思い出し、弟のように思おうとしていた。
 ある日、所長が「北山君、亀田製作所に河野君を連れて行って橋渡しを頼む」と言った。
 私は並んで歩く河野君を見て
「大きいのね」と言うと
「大学時代、ラグビーをしてました」
 と、彼は右手でボールを投げる仕草をした。

 仕事帰り、コーヒを一緒に飲んだ。河野君は饒舌ではないが、クラブでの失敗等、次々と語ってくれた。私がこんなに笑ったのは久し振りだった。
 私は、亡くなった弟、時也がいたらこんな感じになっているかもしれないとふと、思った。
 私は出社するのが楽しくなった。河野君は必ず一回は私のデスクに来て報告をする。

「遅くなったが、河野君の歓迎会を、次の金曜日にやろう」 
 と、所長は言った。

 当日、『アルファ』と言う名の小さな中華料理店を貸し切りにして所長はじめ二〇人が集まった。料理は美味しいし、所長が陽気な人なので楽しく賑やかな席になった。
 くじ引きで席を決めたら私と河野君は隣同士になった。
「どうぞ」と、河野君がビールを注いでくれた。
「一杯だけね」と、私は受けた。
 いつもは苦いと思っていたビールがさらっとした甘みがする様に思えた。私は浮き浮きしていた。

 会は終わった。
「おい 男子諸君、適当に女性たち送ってあげてよ」
 所長の命令が出て、ワイワイと割り振りした。
「河野君、方向が同じだから、北山さん送ってあげて」
 上司に言われ
「喜んで」と、河野君は答えた。
 タクシーが走り出し五分程経った頃、
「北山さん、良ければ僕と付き合って下さいませんか。貴女が好きなのです」
 河野君は小声で言った。
 私は心臓が止まるほど驚いた。
「七才も年上よ、私」
 おずおずという私に
「関係ないです」
と、河野君は私の手を大きな手で強く握った。
 家の前で降りて、天にも昇るしあわせな気持ちで、タクシーを見送った。追っかけていきたかった。

 門の横の街灯が丸く辺りを照らしている.ふと見ると、あの少年が光の中に立っている。「バンザーイ、バンザーイ」をしている。
何回も、何回も。
私も同じようにバンザーイをした。
(私の弟なのね。君は)
 私は幸せと懐かしさと愛おしさで胸が一杯になって、涙をホロホロとこぼした。

-fin-

テーマ:オトマトペ(擬音語・擬態語)を使って感情の変化を書く  
 平成二八年三月十四日

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